2022年5月29日

S29年卒Y先輩との面談(令和4年3月23日)

 


一九猷会会長からのメールの内容を掲載
 本日(23日)午後1時より修猷同窓会館にて館歌の歌詞表記が「玄海」が「玄界」に変えられて発表された「修猷歌集」の当時の編集者の一員であり「応援歌伝承会」のメンバーであった昭和29年卒のY先輩と、間を取り持ってくれた昭和46年卒で現在私たちの活動に熱心に協力してくれているIさんと二人でお会いしてお話を聞くことができました。
 Iさんからの依頼を受けてご自身で調べられたA4用紙9枚にわたるメモを持参されて「修猷歌集」編纂時の話を聞くことができました。86歳の御高齢でありますが実にしっかりとされて御自宅の室見から西新の同窓会館まで自転車でお出でになっていました。
 まずこの修猷歌集は当時の応援歌が先輩から後輩(現役学生)への口伝えで伝わっていたため正確な歌詞、楽譜にして後世に残そうと「応援歌伝承会」が中心となり、「館歌巻頭言」(毎年の総会の折に 先輩のどなたかが館歌斉唱の前に発声される)の作者である昭和2年卒のT先輩を委員長とし編集委員会が発足した。
 報国寮寮歌を始め今ではあまり歌われないような多くの応援歌が編纂されたが修猷歌集であれば館歌をまず第一に載せないわけにはいけないと、国歌に続いて館歌を掲載したが館歌の歌詞に関しては全く検討、議論することはなかったそうです。
 この時に歌集の館歌について解釈がつけられたが、その原稿(ゲラ)と思われるプリントには下半分に館歌の解釈文(問題の玄海のところは・・我らの青春の血は玄界灘の荒々しい怒涛のごとく湧き立っている・・・との解説)、上半分に歌詞が印刷されているが、それが「玄界」になっている。
 編集委員会でそれまで全く歌詞の漢字変更など問題になることなかったし、解釈文の「玄界灘の荒々しい・・」と言う文章から書きおろしたT先輩が思わず流れで「玄界」と記してしまったのか又は印刷所の誤植なのかは全く分からないと。(自分らもわからなかった。気が付かなかった)
 過去の修猷館の印刷物を調べれば昭和17年卒業記念誌では館歌の「青春の血は」が「青春の地」になっていたり、昭和29年卒の卒業アルバムには館歌の「館友」が「館有」になっていたりと結構あったみたいです。
 はっきりしているのは当時修猷歌集を編纂する際に「玄海」を「玄界」に変えようとかの話は全くなかったということ。このことは現存の当時編集委員であった昭和24年卒のT先輩、N先輩、昭和17年卒のI先輩、昭和30年卒のM先輩らに電話で確認したが皆そんな話は全くなかったとのことであったと。
 このことに関しては私共が同窓会長から受け取った返書では「昭和53年に伝承委員会において検討された上で「玄界」と統一された」と記されていますが、全くそうではない、何かの理由、意図をもって変えられたものではないことが明らかになりました。
 又返書には原本と思われる大正期の歌詞(修猷200年史 196ページ記載)から5か所の変更があり(荒き穂波が怒涛に。質朴の風を甘なひつがきたえつつに、吾等の使命を果たさなんが吾等が使命を果たしてん等) この「玄界」だけを問題視するのはいかがなものか?との話もありましたが、他の部分の変更はこの歌集が編纂される相当以前、おそらく結城先輩が入学以前なので昭和10年代ではないかとの話であったが、それはそれで十分検討された上で変更されたものである。「玄界」問題とは別であると。
 その後伝承会は先輩から後輩への口伝て(口づて)で音符について必ずしも忠実でないところもあったので、正しい音源として確立したものを残そうとDVD製作委員会発足して、昭和41年卒の東京芸大卒のテノール歌手M先輩をリーダーに吹奏楽部や合唱部等総動員でDVDが完成した。その歌詞は先に完成した修猷歌集を基に「玄界」になっているが、あくまでも音の世界中心の活動であったので字句にはあまり気にすることはなかったと。
とにかく学校、同窓会側がしきりに「当時の伝承委員会がいろいろ検討した上で決まったこと」と言う言い訳けは完全に覆された感じでした。それだけで大きな成果であったと思います。
 尚 三番の歌詞の・・質朴の風きたえつつ・・の「きたえ」が「きたへ」と混在していることとと、やはり最後の「果してん」と記されているのが正確には「果たしてん」、「た」が入るのが正解であると。の指摘もありました。
 そして「玄界」の意味に関して一字ずつの意味を合わせて解釈する(暗い世界、幽界と)のはいかがなものか?とのご意見もいただきました。それだったら「玄人」(くろうと)はどう説明するのか?素人の対義語で技芸などその道に熟達した人、専門家のことであり、黒い、暗い人ではないと。
以上ご報告まで。

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